人気ブログランキング | 話題のタグを見る

イタリア近現代史研究会

italia1978.exblog.jp
ブログトップ
2008年 02月 07日

3月例会報告

日時:2008年3月29日(土)、17時30分~19時30分
報告者:新保淳乃
題目:「マルタ騎士団における反ペスト/反異教徒プロパガンダ―1676年マルタ島ペスト流行とサッリア聖堂装飾の解読―」
会 場:明治大学駿河台校舎 リバティタワー11階 1111教室

<報告要旨>
 本報告は1676年マルタ島のペストを記念してヨハネ騎士団が「無原罪のお宿り」の聖母に奉献したサッリア聖堂と内装の分析を目的とする。この聖堂はペスト終焉と神の守護への感謝の印として騎士団の名においてヴァレッタ市壁外に建立・装飾され、自身も騎士団員であり17世紀半から後半に活動した芸術家マッティア・プレーティ (1613-99)によって制作された(1676-77)。円形プランの聖堂内部は主祭壇の「無原罪の御宿りの聖母」を4枚の聖人像(聖セバスティアヌス、聖ロクス、聖女ロザリア、聖ニコラ・ディ・バーリ)と左右ルネッタが囲む構成となっている。本報告では、17世紀後半のマルタ島と騎士団が置かれた状況をふまえ、聖母に奉献されたこの聖堂の成立と装飾プログラムを、反ペスト図像伝統の継承と修正、ペスト中に騎士団が行った諸対策(衛生、施療、食糧供給)の記念、反異教徒プロパガンダとして複眼的に解読することを試みる。
 聖母信仰とその図像表現が、単なるキリスト教教義の図解ではなく歴史的に多様な形態と社会的役割を担ったことは、社会史的文化史やジェンダー文化史の領域において多角的に分析されてきた。報告者も、ペスト流行や天災、戦乱、政変など近世都市社会秩序が危機的状況に陥った際に、信徒の精神的傷痕や恐怖心の慰安、道徳的規範の提示に加え、都市社会を統合する象徴として聖母崇拝と表象が用いられたことを考察してきた。本研究では、これまで収集した近世イタリアの作例の中から、美術史でも歴史学でも取り上げられる機会の少ない17世紀後半マルタ島の作例に着目する。この聖堂を同時代的文脈において、当時のマルタおよび騎士団の状況を率直に反映した明晰な図像プログラムを抽出し、ペスト、聖母信仰の文化史だけでなく、近世の地中海中央部の歴史状況理解に貢献したい。
 ヨハネ騎士団は、第1回十字軍を機に結成された施療兄弟会を母体とし、1126年からは聖地とレヴァント地方を異教徒から守護することと巡礼者への施療活動を二大任務とする軍事的騎士団となった。12世紀サラディン軍によるエルサレム陥落後は東地中海へ、また15世紀末からはオスマン帝国の勢力拡大に押されて次々と拠点を失い、1530年から地中海中央部の要衝マルタ島に本拠地を移した。地中海におけるキリスト教諸国とオスマン帝国勢力との攻防について、レパント海戦後から17世紀の状況が論じられることは少ないが、騎士団年代誌やマルタ国立図書館所蔵の騎士団史料を繙くと17世紀後半においてもヨハネ騎士団が西欧世界の防波堤役割を自認し続けていたことがわかる。騎士団はキリスト教世界防衛の大義のもと、定期的な地中海警備遠征と、アフリカ北岸のオスマン帝国属領(バルバリア)船舶を対象とした攻撃・掠奪行為を行った。これらの活動は、イタリア半島沿岸防衛の役割を果たすと同時に、騎士団の財源ともなっていた。
 この文脈において、1676年のペスト流行の終焉記念として「無原罪の御宿り」の聖母に奉献されたサッリア聖堂と内部装飾を分析し、ペストとの戦いに加え、オスマン帝国=イスラム勢力からカトリック世界を守護する騎士団の聖務のプロパガンダとして解読する。すなわち、ルネッタおよび諸聖人の図像は、ペスト奉納画伝統を継承した上で、「施療活動」と「異教徒に対する聖戦」というヨハネ騎士団の二大義務を表象する。さらに主祭壇の「無原罪の御宿り」主題が選択された史的背景を指摘する。最終的に、この聖母図像も反ペスト図像として解釈する必要を指摘するにとどまらず、反異教徒(イスラム)の意味を帯びた戦闘的なプロパガンダとして解釈できることを示す。

*この研究調査を行ってから公的に発表する機会を逸したまま数年経ってしまいました。今回報告する機会を頂いたので、論文化をめざし、17世紀の地中海覇権争い、ヨハネ騎士団と聖母信仰、衛生対策と宗教図像の連関など多方面から批判、助言、情報を頂けるようお願いいたします。

by storia-italiana | 2008-02-07 19:53 | 2007年度


<< 4月例会のお知らせ      12月例会のご案内 >>